京都大学宇治キャンパスは、本部キャンパスから東南約17km の宇治川右岸に位置する。
この地は、古来巨椋池(1941(昭和16)年干拓)と宇治川の結節点として、水陸交通の要衝であり、付近には多くの古墳や古社寺が点在する歴史的伝統のあるところである。
宇治キャンパスに隣接する岡屋津は、昔、国の内外の船が集まる重要な港で、近くの黄檗山萬福寺の文化や建材もここから陸揚げされた。
平安時代には、中央貴族の別業の地として栄え、また茶の産地としても有名である。地名の「五ケ庄」は、近衛家の領地である「五箇庄」に由来する。
1872(明治5)年、黄檗山萬福寺の後山を利用し、火薬貯蔵庫が、さらに1896(明治29)年に現宇治キャンパスの地一帯に火薬廠が設置された。
終戦後は、進駐軍の管理下におかれていたが、逐次、京都大学などの文化施設、病院、運動施設等に衣替えされていった。
左側の建物が旧館で、右側の建物は1955(昭和30)年度に増営された鉄筋建物である。
京都帝国大学と九州帝国大学に各3講座からなる「木材研究所」が附置されることになったが、大戦末期で建物の新営は不可能であり、農学研究科所属の建物で研究が開始された。
1947 (昭和22)年4月1日、現所在地(東京第2陸軍造兵廠宇治製造所跡地)の使用許可を得ると同時に、研究室の大半はここに移転集結した。
戦前の思想弾圧(瀧川事件)で1933(昭和8)年に京都大学を辞職した瀧川幸辰法学部教授は、戦後、京都大学に復帰し、1953(昭和28)年に第15代総長に就任した。
新制大学発足を機に京都大学宇治分校を設置。教養課程の一部(1回生)を行う。(〜昭和36年(1961年)統合廃止)
防災研究所並びに工学部附属電離層研究施設及び原子核工学教室の一部が宇治キャンパスの利用を開始
京都大学に附置された国立工業教員養成所が宇治キャンパスに開所(~昭和44年(1969年)6月廃止)
本セクション作成に当たっては、宇治市歴史資料館(https://www.city.uji.kyoto.jp/soshiki/89/)のご協力を得ました。
本セクションに掲載している画像は1点を除き同館からの提供によるものです。
大正から昭和前期にかけて盛んに描かれたパノラマ地図の手法をもちいて、宇治市とその周辺地域を描く。
日本画家三輪高英氏が宇治市の依頼により制作。
1952(昭和27年)11月以来、実地踏査に三年の歳月を費やしたとあって社寺や施設などの建物をはじめ、山や藪、田畑の区別などくわしく描き分けられている。
1956(昭和31)年1月に完成し、翌月の平等院解体修理の上棟式の日に初めて公開された。
右端下に京都大学宇治分校が見える。また、中央奥、萬福寺の南側(右側)、宇治少年院の西側(下側)には京都大学宇治寮が見える。京都大学宇治分校の北側に隣接する現陸上自衛隊は、1950(昭和25)年に創設された警察予備隊から1952(昭和27)年に保安隊となり、1956(昭和31)7月に年に陸上自衛隊に改組された。よって、本絵図上では公開時の「保安隊」表記である。
画面中央に「黄檗駅」とあるのは、「京阪黄檗駅」である。「国鉄黄檗駅」(現JR西日本)の開業は1961(昭和36)年であり、この絵図が描かれた時点では存在しない。
表示が陸上自衛隊なので、1956年7月以降に撮影されたとわかる。
なお、1981(昭和56)年に追加されるまで「屯」は常用漢字に入っていないことが、
「駐とん」と表記されている理由と思われる。現在は「駐屯地」となっている。
1950(昭和25)年4月、旧陸軍が火薬廠の水道として造った浄水場等の施設を借りて、宇治川の伏流水を原水に水道水を配ったのが、宇治浄水場の始まりである。
インゲン豆に名を遺す、清国より渡来し、江戸時代に萬福寺を開創した高僧である隠元隆琦の名に由来する。写真は、1953(昭和28)年の水害で木造の橋が流された後、1956(昭和31)年に鉄筋コンクリートの近代橋として復旧してまもない頃。なお、現在の橋は、平成に入ってから架け替えられたものである。
近くの「京阪黄檗駅」は大正時代から存在するのに対して、国鉄黄檗駅はかなり新しいことになる。
なお、現在も、2つの黄檗駅は相互に独立しており、連絡通路などでつながっていない。
現在の写真では、右手に、完成時の写真では家屋で隠れていたJR奈良線が見える。
現在の歩道橋の、向かって右側の支柱のサビに、撤去された当初のらせん階段の名残が見られる。
らせん階段が撤去され、周辺の家屋もなくなり、電柱も移動され、現在は歩道が広くなっていることがわかる。
最初に示した「宇治市観光絵図」が描かれたころ。日本レイヨン(現ユニチカ)宇治工場(中央手前)上空から北側を望む。画面奥左側に京都大学宇治分校と保安隊(現陸上自衛隊)駐屯地、中央奥に萬福寺、画面右下には国鉄宇治駅(現JR宇治駅)が見える。画面中央を流れる宇治川には、宇治川大橋(1966(昭和41)年3月開通)や宇治川水管橋(1971(昭和46)7月完成)は、まだ、かかっていない。平等院鳳凰堂や、日本三名橋の一つの宇治橋は、この写真の位置関係から言えば右側にあり、写っていない。
京都大学の自然科学系研究所を宇治キャンパスに統合するという方針の下、
5つの研究所(化学研究所、工学研究所、木材研究所、食糧科学研究所、防災研究所)が移転した。
さらに工学部の附属電離層研究施設、オートメーション研究施設、超高温プラズマ研究施設及び航空工学教室実験施設の一部が宇治キャンパスに移転した。
中央の建物は5研究所の入った総合研究棟(現宇治地区研究所本館)(1970(昭和45)年竣工)。
建築時に防災研究所の主張で耐火被覆をしない鉄骨建築となったため外から鉄骨が見えるつくりとなっている。
原子エネルギー研究所発足[工学研究所を発展、改組]
ヘリオトロン核融合研究センター発足[工学部附属超高温プラズマ研究施設を発展、改組]
超高層電波研究センター(全国共同利用施設)発足[工学部 附属電離層研究施設を発展、改組]
工学部附属高度情報開発実験施設発足[工学部附属オートメーション研究施設を改組]
(〜1997(平成9)年3月廃止)
広島大学理論物理学研究所が統合整備され、本学の基礎物理学研究所の4研究部門として宇治キャンパスで研究活動開始。(~1995(平成7)年9月移転)
木質科学研究所(3大部門・1客員部門)発足[木材研究所を 発展・改組]
エネルギー理工学研究所発足[原子エネルギー研究所とヘリオトロン核融合研究センターを統合、再編]
宙空電波科学研究センター(全国共同利用施設)発足[超高層電波研究センターを発展・改組]
宇治キャンパスの各事務部を宇治地区事務部に統合
食糧科学研究所が農学研究科に統合
低温物質科学研究センターが、宇治キャンパスでの活動開始
国立大学法人京都大学設立
生存圏研究所発足[木質科学研究所と宙空電波科学研究センターを統合・再編]
産官学連携センター発足[国際融合創造センターを発展、改組]
大学院生・留学生・研究員等が集う研究施設として、また国際会議や学会等を常時開催できる施設として、
並びに地域住民及び社会との活発な交流が可能な開放的施設として「おうばくプラザ」が竣工
産官学連携センターが産官学連携本部に統合(理工農学分野宇治拠点の廃止)
環境・エネルギー分野における世界トップレベルの産官学連携共同研究を推進する開発拠点として、宇治地区先端イノベーション拠点施設が活動を開始
情報学研究科(サテライト部局)が宇治地区での活動を終了
低温物質科学研究センターは廃止され、環境安全保健機構低温物質管理部門として寒剤供給業務を継続